※ネタバレありです。
「月長石」を読み終えました。
この長い、たっぷりとした物語を読み終えたかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。
あともうすこしで読み終えるというときに気になったのは、結末の落しどころでした。
なくなった宝石が、もち主のレイチェル嬢のところにもどっても、インド人がねらっているあいだはハッピーエンドにはなりません。
かといって、宝石がインド人の手にわたるのも、最良の結末とは思えませんし、なんだかシャクな話です。
目次には「宝石の発見」というタイトルがあります。
物語の終わりには、宝石はだれかに確実に発見される運命にあるようです。
それで、いったいだれが宝石を発見するのかと思っていたら、インド人たちがあっさり宝石をもっていってしまいました。
しかし考えてみるとこの小説、冒頭はともかく、後半は月長石をとりもどす必要はまるでないのでした。
後半は、レイチェル嬢とフランクリンの恋が成就すればよくて、それにはレイチェル嬢のフランクリンに対する誤解が解けさえすれば、それでよかったのです。
そしてそれはエズラ・ジェニングスの実験によって証明されました。
「こんなダイヤモンドはこなければよかったのに」
と、執事のベタレッジがいった月長石は、もうもどらなくてよかったのです。
もう月長石は、インド人のものになってよかったのでした。
これはまったくうまい結末の落しかただと思います。
インド人が宝石を手に入れても、まだ話は続きます。
インド人たちの逃走経路を、物語は律儀に語ってゆきます。
ここはもう、なくったっていいところです。なくて、探検家がインドで月長石を見つけてジ・エンドとしてかまわない。
にもかかわらず、物語はインド人たちの消息を追っていって、このマメマメしさも気に入っています。
長い物語にはそれなりのていねいな結末が欲しいもので、それをしていると思ったのです。
さて、一歩下がって、小説全体をながめてみることにしましょう。
これはまえから思っていたのですが、(そして、Kさんには話したような気がしますが)、ミステリに回想という手法は、とても合う気がします。
「薔薇の名前」を読んだときもそう思いましたし、ずっとまえホームズを読んだときにも、つくづくそう思いました。
以下、ちょっと横道にはいって、ホームズ物を例に、回想がどんなに便利かを話してみることにしましょう。
◆回想がどんなに便利か。その@
ご存知のとおり、ホームズ物はワトソン博士の回想という形式で書かれています。
この回想が便利なのは、話が早いことです。
ホームズのところにくる依頼人たちは、自分たちの身に起こった出来事を、じつに正確に相手につたえることができます。
これは依頼人たちの有能さばかりではなくて、ワトソン博士の手際のよさもあるのではないかと思うのです。
この手際を発揮するのに、回想という手法はとても便利なものでしょう。
おかげで読者は、煩雑な事実関係にわずらわされることなく、ホームズの名推理ぶりを味わうことができるのです。
◆回想がどんなに便利か。そのA
また回想には伝聞がともないます。
読者は現場に案内されることはなく、ただワトソン博士から話を聞いて、その事情を察します。
これが、ワトソン博士がホームズから聞いた話となると、読者−ワトソン−ホームズとなります。
さらにホームズが依頼人から話を聞いて、なおかつその依頼人がだれかと話していたなんてことになると、読者−ワトソン−ホームズ−依頼人−だれか、となって、ほとんど伝言ゲームみたいなことが起こります。
ホームズ物はよく考えるとバカバカしい事件が、妙なリアリティをもって読むひとをとらえますが、その原因はここにあるのではないかと思います。
「友達の友達」の話を聞いている気分とでもいえばいいでしょうか(もちろん回想者の手腕が第一ですが)。
バカバカしい話が好きな人間にとって、この伝聞とは、かくも魅力のあるものなのです。
これにより、話も早くなりますし。
だしぬけですが、ホームズ物にあって、クリスティにないのはここのところ、「バカバカしさ」ではないかと思います。
クリスティの登場人物は、物語とはあんまり関係がないくだらない話をしません。
クリスティは、Kさんお勧めの、「謎のクィン氏」と「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」くらいしか読んでいないのですが、勝手にこうだと確信している次第です。
ぜんぶ読まなくたって、わかるものはわかる。
◆回想がどんなに便利か。そのB
回想形式では,事件はもう終わっています。
それは語るさい、事件のつじつまがあってもおかしくないという感じをあたえます。
現在形のミステリは、読んでいる最中、「そううまくいくものかなあ」という気がするときがあるものです。
真相は「藪の中」が当然とまではいいませんが、そのほうがより真実味があるような気がするのです。
またもやだしぬけですが、伝聞だけれど回想形式ではない、「隅の老人」の語る話が非常にうさんくさいのは、このためのような気がします。
◆回想がどんなに便利か。そのC
それから回想形式では、話は思い出して語られるので、しみじみとした風情が漂います。
これは「赤い館の秘密」のラスト、犯人からの手紙が好きなKさんには、わかってもらえるでしょう。
また回想形式は、事件に対して余裕が生まれます。
現在形のものにありがちなように、せっぱつまっていない。
これも回想形式の徳のひとつかと思います。
いつもながら変な理屈を振り回してしまって、申し訳ありません。
ただ、「月長石」は、非常にサスペンスにあふれていて、それには回想形式が効果的に使われているといいたかったのです。
あの長い物語を夢中になって読むことができたのは、じつにこのおかげでした。
(そしてまた逆をいえば、回想形式ではない現在進行形の物語では、その整理されていない現実を、ことばによってどう抽出し、並べ、表現するかが勝負のしどころといえます。しかしこれがどんなにむつかしいことか!)
もうすこし「月長石」に近づきましょう。
作者のウィルキー・コリンズは、構成だけではなく、登場人物の造形にもすばらしい手腕を発揮しています。
「ロビンソン・クルーソー」教徒のベタレッジ執事、薔薇好きのカッフ部長刑事、偽善者の鏡のようなゴドフリー・エーブルホワイト、隙あらばフランクリンに近づいていってしまう、かわいそうなロザンナ。
そのほか、どの人物をとっても、じつに生き生きと描かれています。
それは単に、読者に対して、登場人物に親しみをもたせるだけではありません。
レイチェル嬢は非常な強情っぱりです。
フランクリンは快活ですが、どこか粗放なところがあります。
月長石をめぐる謎は、この二人を中心に起こり、解かれました。
ここでは、その性格が、綿密な構成を支えています。
性格と構成は幸福に結ばれています。
二人はたがいに二人を思って、事件をややこしくしていたのです。
こういう話を読むことが、喜びでなくてなんでしょうか。
「月長石」は回想のリレーでできていますが、語り手だったひとが別の語り手によって語られるところも、またこの物語を読む醍醐味といえるでしょう。
その友達のことを、べつの友達から聞いたときの楽しさ。
フランクリンによって書かれた文章のなかで、ひさしぶりにベタレッジ執事と再会したときは、じつに嬉しいものでした。
ただ文中、語り手の思い入れが強い相手が出てきたときは、その語り手の語りかたに鼻白む思いがしたことも事実です。
具体的には、フランクリンによって書かれたレイチェル嬢のことです。
「私は彼女を腕の中に抱き、接吻の雨で彼女の顔をおおった」
などというところは、読みながら、自分でこういうことを書くなよ、とツッコミをいれたものでした。
語り手のなかで、ほかのひとたちと毛色がちがうことで深い印象をのこすのが、クラック嬢とエズラ・ジェニングスです。
クラック嬢は、ブラッフ弁護士に「狂信者」呼ばわりされるほどの、熱心な、いささか迷惑なキリスト教徒です。
このクラック嬢の書く文章によって、読者の事件に対する混乱の度合いは深まります。
なにしろこのひとは、レイチェル嬢やブラッフ弁護士がきらいで、ゴドフリー・エーブルホワイトが大好きなのですから。
またクラック嬢は、当人は気づいていないかもしれないけれど、とても滑稽味があります。
近くにいたらげんなりするだろうけれど、見ているぶんにはとても面白い。
作者はこんな人物を、よくつくり、うまく描いたものだと思います。
いっぽうエズラ・ジェニングスには、そんな滑稽味はありません。
かれは痛々しい人物です。
生まれてから辛い目にあいつづけて、物語にあらわれたときは、病気と阿片で苦しんでいます。
物語には、そう明言されていませんが、もしかしたらかれの親はジプシーだったのかもしれないと、思いました(ホームズ物にもジプシーは何度か出てきましたね)。
この二人はまるで似ていませんが、ただ物語のなかで二人とも孤独だというところに、二人の共通点があります。
おかげで、物語全体をとおして、二人は物語に陰影をつけるという役割をみごとに果たしたのだといえそうです。
この二人がいなければ、物語はもっと平板なものになっていたことでしょう。
しかし、この傑作である『月長石』にも、文句をつけたいところがあります。
トリックのことです。
宝石がなくなったのは、知らぬまに阿片を飲んで心神喪失となったフランクリンが、自分でも気づかぬうちに、レイチェル嬢の箪笥の引出しから宝石を盗んだからで、これが本編最大の謎の種明かしでした。
しかしこれは、なんだかずるじゃないかと思います。
これがよしとされるなら、作者の都合で勝手に登場人物に阿片を飲ませて、宝石を盗ませることができるでしょう。
誕生会で、キャンディさんとフランクリンのあいだに伏線を張ったことはわかりますが、しかしなんだか卑怯な感じがします。
作者が力をもちすぎているのです。
といっても、この小説はミステリという形式ができるまえのものですから、この文句は的外れかもしれません。
こんなことよりも、ロザンナが流砂に隠した箱から、フランクリンのナイトガウンが出てきたところや、エズラ・ジェニングスとの実験を愉しんだほうがずっと得かとも思います。
実際、ここのところは読んでわくわくしてものでした。
(そして、あんまりわくわくしたので、種明かしのずるさに腹を立てるということにもなるのですが)
(そしてまた、腹を立てること自体も愉しいのですが)
さて、こうして「月長石」は読み終わりました。
つぎはどんな本が読みましょうか。
読んでない本の在庫には、たとえばダシール・ハメットの「デイン家の呪い」や、ドナルド・E・ウェストレイクの「逃げ出した宝石」があります。
どちらも宝石がらみの小説です。
しかし、ここはスティーヴンスンの「バラントレーの若殿」でいきたいと思います。
この小説は、宝石こそ出てきませんが、名門バラントレー家の執事による回想記という体裁なのです。
執事物なんてジャンルは、あるのかどうか知りませんが、まあその部類にはいる一作です。
ただ悲劇なので、執事の語りがベタレッジ執事のような愛嬌に乏しいところが、玉に瑕ではあります。
それに、怪しいインド人も出てきます。
しかも変な術を使うらしいので、この先読むのが楽しみです。
と、つぎの展望を述べたところで、感想はおしまい。
おつかれさまでした。